教えるということは、生徒に足りないものを補うことだと思っています。
たとえば、あることを習得するのに100ものもが必要だとして、生徒はたいてい、すでに70くらいは持っていたりします。残りの30が足りないために到達することができないゴールがあり、だからその30を教える側は与えればよいのだと。
あるいは残りの30を獲得するための方法を教える。
ドミニカ共和国という発展途上国で音楽教育に携わっていたとき、ここにはもう足りないものが多すぎて何から手を付けたらいいのか途方に暮れたものですが、まず使える楽器を置きましょうということで、楽器購入のための資金調達をしました。
この国には教師だけはいました。だから教師を調達することは考えなくてよい。あと足りないのは楽譜ですね、ということで、わたしはその楽譜供給をすることにしました。
中学で教えていたときも同じ考えでした。
生徒は元々いろいろな力を持っているもので、それを的確に伸ばすための栄養を与えればよい。
たとえば、バッハの人生を学ばせる場合、わたしがバッハの人生のワークシートを作って
、これを全部覚えなさい、とか強制するよりは、バッハについての面白い逸話を話す方がずっと効果があるのですね。中学生だと、バッハの髪型にとても強い好奇心を持っているので、つまり、あれがカツラなのか地毛なのか、カツラならその下は○○、、で、わたしはその好奇心を満たす話をするわけです。もちろんカツラですよ、その下は当然丸坊主ですよ、当然でしょう、カツラをかぶるのに髪はない方がラクですからね、でもどうしてわざわざカツラなんかかぶってたのでしょう、じゃあ、調べてみようか、はい、はじめ、とか言えば、生徒は自分からバッハがカツラをかぶっていた理由を知りにネット世界へと旅立ちます。そして、わたしが知っていることよりはるかに多くの逸話をネット上から見つけ出してきます。
よその国に行って、その社会の中である程度の時間を過ごしてみて、初めて見える我が母国というものもあります。
日本には、決定的に足りていない栄養素があると思っています。
ドミニカ共和国にはあたりまえにあって、十分すぎるほどあり、おそらくそれは音楽をする上でも、人として生きていく上でもとても重要な栄養素であると思うのですが。
次回、その栄養素について書こうと思います。
ご一読ありがとうございます。
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